かつて「ドラフト1位」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。華やかな世界として脚光を浴びる一方で、現役生活では「ドラフト1位」という肩書に苦悩し、厳しさも味わった。その選手にとって、果たしてプロ野球という世界はどのようなものだったのだろうか。

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多田野数人、ドラフト1位の肖像#3――日本ハム1年目の骨折で余儀なくされた軟投派への転向

多田野はアメリカでの経験を今でも意識していると話している。【田崎健太】

■初登板初勝利も状態は「天と地の差」

 5月の北海道の天気は気まぐれである。

 雨が降って気温が下がり分厚い上着が必要になることも、あるいはからりと晴れて半袖で過ごせることもある。

 2008年5月2日は後者だった。日中の最高気温は25度、鮮やかな青い空が広がっていた。ゴールデンウィーク中ということもあり、札幌ドームの近くには屋台が出て、夏祭りのような華やかな空気となっていたhttp://faeruoaero.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/fawerxfaewraer
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 この日、ぼくは北海道日本ハムファイターズの社長、藤井純一と一緒に球場へ歩いていた。前年度、ファイターズは13億円の黒字を出していた。数十億円の赤字を毎年計上することが当たり前だった、パシフィックリーグでは極めて異例のことだった。月刊誌から彼のルポルタージュを頼まれていたのだ。

 対戦相手、東北楽天ゴールデンイーグルスの先発はダルビッシュ有防御率争いをしていた岩隈久志。そしてファイターズは多田野数人と発表されていた。前年ドラフト1位で入団した彼の初登板だった。

 1回表、開幕戦以来の4万人の観客の前に、背番号16をつけた多田野がマウンドに登った。大学卒業後、アメリカに渡っていたため、ほとんどの観客は多田野の投球を観るのが始めてだったろう。

 1球、2球と投げ込んでいくうちに、スタジアムは不思議な雰囲気となっていた。多田野はアメリカで150キロほどの速球を投げると報じられていた。しかし、目の前の右腕投手がロボットのようにぎくしゃくとしたフォームで投げ込む球は130キロ代半ばしかなかったのだ。公式発表によるとこの日の最高速は139キロだった。

 その変則フォーム、そして事前情報とは違う球速に困惑したのか、イーグルスの打者は次々と凡退を繰り返した。多田野は7回を投げて1安打無失点、初登板初勝利を手にすることになった。

 多田野は少々複雑な表情でこう言う。

「ファイターズの方々には本当に申し訳ないのですけれど、アメリカでのピッチングとは天と地の差ですね」


■骨折が投球スタイルに大きく影響

 原因はシーズン前の怪我だった。1月6日、自主トレーニング中に左手首を骨折していた。

「ランニングをしていて、駐車場のところにあったチェーンに脚が引っかかってしまって転んだんです。そのときに左手をついてしまい骨折。破片状になった骨を手術でくっつけたんですhttp://cotobaco.com/jpaeirpaerpo/
http://www.68newspaper.net/article_detail.php?article_id=6135


 リハビリを経て2月末に二軍に合流、4月25日に二軍戦に登板している。一軍の投手が不足し、急遽一軍登録、初登板となったのだ。

「ピッチャーって利き腕はもちろんですが、反対の手もすごく大事なんです。投げるときにグラブを(脇に)ぎゅっと巻きこむ。それが全然できない」

 手術後、左手首は自由に動かなくなっていた。今も買い物をして釣りを貰うとき左の掌で受け取ると、小銭が下にばらばらと音を立てて落ちる程だという。

「手首をうまく使えないから、ふわっとした感じで(グラブを)巻きこむしかない。そうなると球速が落ちる。だいたい10キロぐらいは遅くなりました」

 球威を売りにする投手が、コースを投げ分けて交わす、いわゆる軟投派への転向は難しいとされている。年齢を積み重ねるうちに、投球スタイルを変えていく場合もあるが、多田野の場合は突然、球速減を受け入れざるを得なくなったのだ。そして、ドラフト1位投手という視線の重みもあったろう。

 ただ、多田野は周囲の目は気にならなかったと言う。

「直接、ぼくの耳には入ってこなかったです。目の前の打者をどう抑えるか。150キロを投げて打たれるよりも、140キロで抑えるほうが全然いいですしね」

 1年目の多田野は7勝7敗という成績を残した。ただし、これが彼の最高の成績となった。

 翌2009年シーズンは5勝5敗で、二軍落ちも経験した。そして2010年シーズン終了後に戦力外通行を受けた。トライアウトを受験。ファイターズと再契約を結んでいる。

 二度目の戦力外通告は2014年のことだった。

「34歳で、年も年だし、次のステップに進むべきかなと思いました。木田(優夫)さんが石川(ミリオンスターズ)でやられていて、翌年からファイターズに戻るのが決まっていた。木田さんから連絡があって、石川でピッチングコーチ兼任でどうかという話を頂いたんです」